ウィルスへの感染と生命、太田市図書館・美術館について(2019年7月)

2019年の社内報用に書いたもの。『ウィルスは生きている』(2016,中屋敷均(著),講談社)の読書感想文的なもの。。。

********** 

 7月に入り、福岡県内でインフルエンザによる学級閉鎖が相次いでいるらしい。インフルエンザといえば、言うまでもなくウィルスへの感染がその原因だが、これに罹患するととても苦しく、なるべくかかりたくないのはみな同意してもらえると思う(仕事を休みたい人は別かもしれないが)。エボラウィルスなど、ウィルスと聞いてよい印象を受ける人間はごく稀だろうが、本書には、「ウィルスがいなければ胎盤は機能せず、ヒトもサルも他のほ乳動物も現在のような形では存在できなかったはず」とある。一体どういうことか。

 

 周知の通り、ほ乳動物が生命を授かると、まずは胎児となって母親の胎盤とへその緒を介してつながれる。へその緒の先には植物の根のように枝分かれした絨毛と呼ばれる組織があり、その表面は免疫抑制作用等を担う合胞体性栄養膜という細胞の層で覆われている。本書で紹介されている研究によれば、この細胞の層の形成に重要な働きをするシンシチンと呼ばれるタンパク質が、どうやら(レトロ)ウィルスをその起源とするようなのである。シンシチンは細胞融合をすることで前述の合胞体性栄養膜を形成するが、その細胞融合という機能も同ウィルスから受け継いでいるらしい。

 著者は、上記を「ウィルスと私たちが”一体化した事例”」として紹介し、我々の祖先への感染は「おそらくただの偶然」としている。なるほどその偶然がなければ、現在の私たちは存在していなかったかもしれない、言い換えれば、現在の私たちの生命は、祖先がウィルスに感染したことで誕生している。

 これに関連して、森博嗣による著作「彼女は一人で歩くのか?」(※1)を紹介しよう。本作は、遠い未来を舞台とした一連のSF小説、Wシリーズの第一作で、そこでは人間の疾患と寿命が人工細胞を体に取り込むことで解決されている。一方、人が生命を授かること(より具体的にいえば、妊娠すること)も同時になくなっており、それはこの人工細胞が「クリーン」であることによることが示唆されている。つまり、人間は病気にかからず死ぬことのない身体を手に入れた代わりに、新たな生命を授かることができなくなっている。

 またこの物語には、見た目や日常の所作では人間と見分けがつかない、ウォーカロンと呼ばれる人工物が登場し、人間と共存している。主人公はこのウォーカロンと人間を区別する専門家として登場するが、興味深いのは彼が両者を区別する際の判断根拠である。彼によれば、人間だけが「揺らぎ」「発想のばらつき」をもち、後の作品でそれらは「ウィルスによって変異した細胞」「疾患」によるものだと表現されている。

 森が某大学建築学科の研究者であったことは有名な話だが、その彼がウォーカロンという人工物(=非生命)と人間(=生命)の境界線を疾患、ウィルスへの感染として描いていることは、建築の設計者である我々にとって示唆的である。

 

 ところで昨年末、平田晃久の設計による太田市図書館・美術館を訪ねた。彼は自身の作品を説明する際にしばしば「生命」を援用する建築家であるが、この作品についてもワークショップによる他者性と生命とを結びつけて語っていたのが印象的であった。(※2)ただ実際に訪れてみると、そこから感じるのは他者性などではなく、むしろ平田の圧倒的な作家性である。とはいえ、過去に訪ねた幾つかの彼の作品からは感じられなかった何か居心地のよさとでも言うべきものを感じたのは確かであった。

 なるほど、この作品で氏はワークショップというウィルスをうまく自身の作品に感染、一体化させ、生命を生み出すことに成功したのではないか。これは何の根拠もない単なる思いつきに過ぎないが、建築という人工物にウィルスを感染させることで生命を生み出す方法論とその可能性について、考えている。

 

 なお、本書はトランスポゾンと呼ばれる塩基配列やウィルスの研究を専門とする中屋敷均による著作である。20世紀中頃のとある研究結果以降、ウィルスは多くの生物学者から生物とはみなされていなかった。近年こそその状況は変化してきているようだが、氏も本書の中で「ウィルスは生きている」と言い切る。本書では、氏がそう考えるようになった経緯が語られる。様々な生物学者の知見や自身のエピソードも交えながら、予備知識のない読者にもわかりやすくまとめられている。

 

(※1)森博嗣(2015)『彼女は一人で歩くのか?』講談社

(※2)平田晃久(2017)『生態系としての公共のはじまり』新建築2017年4月号

 

**********